宮宮コンビから宮宮の絆へ〜終

2013-01-30 (水)

地方公務員 宮崎県

さて最終回。今日はまたいちだんと長い。すまん。

 

 

NPO法人ファイブブリッジ」理事長の畠山さんとお会いしたのは、2012年9月末だった。NPOへの支援活動を通じて畠山さんと繋がっていた友人がランチに誘ってくれたのだった。

 

畠山さんは、本業は地元紙である河北新報社員でありつつ、NPOでの活動として、震災前から産学官連携のコミュニティー活動をされている方だ。ところが、大震災が起きたことで、必然的に人と人を繋いで復興につなげる役割も担ってこられたようだ。*メンバーのひとり・山田さんの活動は、ほぼ日などでも取り上げられている。

 

そのような活動のひとつとして宮ギ県内での軽トラ市を企画していた畠山さんは、「宮城こせがれネットワーク」の志村さんと一緒に、口蹄疫の被災中心地・川南町の軽トラ市(たぶん日本最大級)を視察に来ていたのだった。

 

県庁近くの郷土料理屋で冷や汁定食を食べながら、「宮宮コンビ」だとか、人と人の繋がりといった話をした。平日の昼休みであったから、正味50分ぐらいの時間であろうか。そのときは自覚がなかったのだが、宮ギの人に宮宮の話をしたことで、自分の中の何かが動いたんだと思う。プスプスとくすぶっていた消し炭のような「宮宮」への思いに、じわっと火が付いた。消し炭は簡単に火がつく。そして意外にも火力が強く、新しい炭を追加すれば、あっという間に燃え上がる。

 

それまで、ぼんやりとではあるが「誰か」のために「何か」をしなくちゃいけない、と思っていた。実際、ぼくの周りの知人たちは、震災を期にいろいろなアクションを起こしていた。敬愛するりえ子姉は、震災以降、ずっと東北に通っている。知人であるカメラマンの蓮井さんは「スマイルレター」というプロジェクトに取り組んでいたし、師匠であるさとなお氏なんて、国を動かし公益社団法人まで立ち上げた。

 

でも、畠山さんと話をしてから、少しずつ「何かをしなくてもいいのかもしれない」と思うようになっていった。そもそも、そうそう東北に行くことはできない(時間的にも金銭的にも)。具体的にお役に立てるような技能もあまりない(補助金の申請手続きぐらいはできるか)。でも、「何かをする」のではなく、震災の動画や写真では見えないことを「感じてくる」だけでもいいのかもしれない。

 

よくよく考えてみれば「宮宮コンビ」は、「宮」が共通、という冗談みたいなことでスタートしたのだ。すべては動きながら考えてきた。今回だって、動いているうちに何かが始まるかもしれない。まずは行ってみよう。行ってから考えよう。ぼんやりとした思いが、実際の行動に繋がったのは、ようやく11月になった頃だった。

 

中身は何も決めずに、飛行機のチケットだけをおさえた。2泊3日。漠然とイメージしたのは「1日はレンタカーで海岸線を走ってみる」「1日はボランティア?」ということぐらい。あとは「残り1日、県職員もしくは地域の住民と話をしてくる」といった感じかなあとイメージしていた。

 

訪問直前になって畠山さんにFBでメッセージを入れた。何も考えずに行ってしまってもよいけれど、「被災地を見るのならここに行け」「この人なら話をしてくれるかも」というアドバイスぐらいは貰っておこうと考えた。そしてせっかく知り合いになったので、ちょっとお会いしましょうと。

 

そんなぼくの「軽い」相談を、畠山さんは真摯に受け止めてくれた。「甲斐さんの関心事はどの辺りなのでしょうかねぇ。…電話でもやりとりしながらすり合わせして、甲斐さんツアーのベストプランをコーディネートしましょうか?」そういう返事が来た。

 

ネットワーク力のある畠山さんの周りには、自らもフットワークよく「動く」人が集まっている。アイデア出しやら、具体的な調整やらを行った。特に今回は、宮ギ県庁の野呂さんが、行程の細かな段取、訪問先との調整などを全部引き受けていただいた。出発の2日前に、詳細なスケジュール表ができあがった。

 

 

しかしてこの行程は、まるで知事レベルの視察行程であった(笑)。すべての行程にアテンドが付き、車も出してもらえて、関係者との意見交換や現地視察までしてくれるというのだ。ぼくは、ただ畠山さん野呂さんのガイドにお任せしていればよい。…うーん。これは本末転倒じゃないか。そうやって遠慮するぼく(こうみえて、一応気は遣う)に対して、畠山さんはこう言ってくれたのだ。

 

「ぼくらも外からくる方を案内するトレーニングになります。今回は野呂くんがアテンドしますが、キチンと現状を伝えられる人も育てなくてはいけないのです。」

 

この言葉で、ぼくも随分気持ちが楽になった。特に野呂さんは、会ったこともないぼくのために、相当の労力を注いでくれている。なんていい人!

 

…そうなのだ。今回、特にこのお世話になった2人への報告書のつもりで、書き始めたこの文章なのである。でも、今の気持ちを伝えるには、これまでの経緯をある程度ちゃんと書かねばならぬなあ…という思い始めたら、ずるずると書き連ねて、とうとう「前置き」がすごい長さになってしまった。まあ、実際、ぼくにとっては、そういう長い時間がかかっている物語なのだ、ということです。

 

 

さて、今回の訪問は、「被災地の今を感じること」が目的ではあったが、その「今」というのは、主に「被災状況」「復興状況」を感じとる、というほどのつもりであった。震災から2年という意味を、風景の中から感じてみようと思っていた。

 

実際、北は気仙沼から、南は塩釜まで車で走ってみて、一面の更地となってしまっている元・住宅街をいくつも見たし、津波遺産のような「第十八共徳丸」や「南三陸町防災対策庁舎」、「門脇小学校」の前に佇んでみたりもした。

 

幹線道路には「○○省○○対策事業」という旗を掲げたトラックが列をなして走っていた。瓦礫の山、廃車の山が、あちらこちらに小山のように積み上がっていた。そんな小山を周囲に抱えた「瓦礫処理プラント」が何カ所もあり、もくもくと煙をあげて、焼却処理を行っていた。海岸は未だ地盤沈下が止まらないらしく、あちらこちらで海水があがっていた。想像していた以上に「震災の記憶」「津波の記憶」はまだまだ残っていた。

 

でも、ぼくが「今」を感じたのは、そういうハード的なものだけではなかった。さまざまな分野で前に向かって戦っている市井の人々の中にこそ、宮ギ県の「今」を感じることができた。

 

■宮ギ県庁から山元町に派遣されているA氏は、JR線の再建にあたって線路を山側に移設する案について、住民の意見がぷっつり二分されていることに心を痛めていた。

■宮ギ県庁N氏は、昨年から震災復興推進課に異動し、まさに最前線で国との調整業務に追われている、ということを持参した資料を使いながら丁寧に教えてくれた(居酒屋で飲みながら)

■宴会に来てくれる名前を聞いても思い出せなかった宮ギ県庁のSさんは、顔を見た瞬間「あ!知ってる」と(お互いに)思い出した。遠距離恋愛は大変だ。

■宮崎で会ったことがあるのかもしれない宮ギ県庁のSさんは、やっぱりたぶん初対面、のハズ。

■仙台「○たけ」の石山くんは、あまり練習してないといながら、おめでたい詩吟「宝船」を吟じてくれた。

■そこにあとから駆けつけてくれたリエちゃんは、シェアカフェ「まるはた」の専属?料理人として畠山さんを支えていた。

■気仙沼「アンカーコーヒー」のやっちさんは、気仙沼の海岸エリアの復興計画がなかなか進まず、本店の再建ができないことに苛々しつつ、わくわくするビジネスプランを語ってくれた。

■気仙沼「洋菓子店コヤマ」の五代目小山さんは、「絆」という名のカステラをつくりパッケージに「おだづなよ!(こんちくしょう!)」という叫びを刻んだ。

■宮ギ県庁のスーパースター山田さんは、事前に聞いてた以上に、奥さんとラブラブであった。

■気仙沼「すがとよ酒店」の菅原さんは、日南からやってくるカツオ漁船団のために「白霧島」を用意してますと笑顔で言った。

■南三陸さんさん商店街「ヤマウチ鮮魚店」のお母さんは「三陸ホタテの炙り焼き」がすごく美味しいとオススメしてくれた(もちろん買った)。

■石巻「漁業生産組合 浜人」の阿部くんと西條くんは、地元・十三浜の漁業をどうやって強いビジネスにして末長く生き残っていけるかを考えていた。

■「津田鮮魚店」の津田くんは、3月に行う自分の結婚式で、式場から披露宴会場まで間で大名行列をやりたいと言った。

■石巻「居酒屋五エ門」のバイト君は、沖縄からボランティアで入ってそのまま石巻で働き続けていた。

■塩釜「マルブン食品」のブンさんは、慶長遣欧使節団の出航400年の記念事業として3年後のミラノ万博で屋台村をやりたいと妄想していた。

■宮城県仙台地方振興事務所農業農村整備部のブログ「なおこが行く」を書いているなおこさんは年末に第2子を産んだばかりだった。

■宮ギ県庁のノロッチは、奥さんラブで、子どもラブで、必殺タグ付け職人で、ぼくに秋田のジュンサイ狩りを超プッシュしていた。

■NPO理事長の畠山さんは、とにかく顔が広くて、発想が自由で、第一次産業を心から大事にする、こせがれたちのアニキであった。

 

 

今回、仙台〜気仙沼〜南三陸〜石巻〜塩釜で、たくさんの人と、いろいろな話をした。震災のことだけでなく、家族のこと、ビジネスのこと、恋話や下ネタも話した。そうすることで、徐々に東日本大震災というものが、ぼくの中で、立体感をもって目の前に立ち現れてきた。

 

そうなんだな。たまたま震災に遭い、家や店が流されて、家族や知人を亡くして、被災者となってしまった宮ギ県の人たちは、明日のぼくであり、あなたでもあるのだ。そのことをひしひしとリアリティを持って感じられた。

 

もちろん、被災者の悲しみや辛さを理解できた、などと言うつもりは毛頭ない。口蹄疫で牛豚を殺処分せざるを得なかったぼくらの気持ちは、なかなか理解して貰えないのと同じで、いやそれ以上に、ぼくらは被災者の痛みなどわからないと思う。

 

それでも、今回、出会った人々と濃密な時間を過ごしたことで、ぼく自身の気持ちの距離は、ずっと宮ギに近くなった。

 

 

宮ギ・宮ザキで「宮宮コンビ」なんて、ホントにお笑いのようなものだ。「進ぬ、電波少年」でもやらないようなしょーもない企画だ。でも、そんなお笑いのようなものでも、確実に「繋がるためのきっかけ」にはなっていた。甚大な被害からすると、吹けば飛ぶようなものかもしれないけれど、「宮宮の絆というものに姿を変えていた。誰かと誰かの距離を縮めていた。

 

宮ギを旅しながら再認識したのは、ぼくは大勢のために何かができるような人間ではないということだ。全然たいしたことはできない。ちっちえー男だ。でも、自分の半径10m以内にいる人のためなら、ちょっとは頑張れる人間ではある(@当社比)。今回、いろんな人がぼくの半径10m以内に入ってきちゃった。彼らのためなら、一緒に何かができる気がする。

 

その「何か」は今でもよくわかんないんだけど(笑)

 

ま、それこそが「宮宮コンビ」による「宮宮の絆」ってことで。

 

最後に。畠山さん、ノロッチ、次に宮ギに行くときは、「まるはた」に呼んで。わかめのしゃぶしゃぶ食わせて。お世話になりました。本当にありがとう。

 

 

 

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