宮宮コンビから宮宮の絆へ〜その3

2013-01-28 (月)

地方公務員 宮崎県

口蹄疫。この目に見えないウィルスのために、2010年の4月末からの約3ヶ月間、宮ザキ県は地獄となった。明けない夜もあるんだなあ、と思いながら毎日を過ごしていた。

 

ぼくの仕事に関して言えば、数ヶ月にわたって準備をしていた映画の企画が流れ、PRイベントはすべて中止となり、もはや「宮ザキの魅力をアピール☆」などという状況では全然なくなってしまった。ぼくらのチームは、一時業務を中止し、緊急対策本部付として、防疫対策に当たっている畜産課の補助要員などを担当することになった。

 

多数の義援金が寄せられたり、獣医師の派遣をいただくなど、全国からのたくさんの支援が届く一方で、畜産課には連日多数のクレームが押し寄せていた。「宮ザキが日本の畜産を潰す」「発生農場は焼きはらえ」「死ね。死んで詫びろ」…。「防疫体制が甘い」というお叱りならまだしも、まるで宮ザキ県民そのものが病原菌であるかのような誹謗中傷も少なくなかった。

 

そんな折、一本の電話があった。宮ギ県のN氏だった。「ああ、甲斐さん。いつもニュースを見て心配しています。大丈夫ですか。こんなときに電話して申し訳ない。我々、何の力にもなれませんが、とりあえず県庁内で義援金を募っています。できることはそのぐらいです。ごめんなさい。でも、みんな宮ザキのことを心配しています。がんばってください。」

 

こみ上げてくるものがあった。N氏の上司からぼくの上司へも電話を頂いた。副知事から副知事へ、知事から知事へも激励の電話があった。宮宮のネタだとか、キャンペーンだとか、そういうのはどうでもよかった。宮ギ県と宮ザキ県が、この災害をきっかけに、もっと深いところで繋がったような気がした。

 

宮ザキの口蹄疫は、約30万頭の牛・豚を殺処分という大きな犠牲ののち、全農場のウィルス検査を経て、7月18日に非常事態宣言が解除、潜伏期間を過ぎた8月27日にようやく終息宣言に至ることができた。真っ暗な夜ではあったが、明けない夜はなかった。

 

ーそれから半年後。今度は東北地方を、大震災、そして大津波が襲った。

 

震災直後は、なかなか現地の様子が入ってこなかった。大手メディアの情報も断片的なものでしかなかった。また原発の問題も発生した。どのような支援ができるのか、各県とも判断を決めかねていた。国が、各県に役割分担を割り振るという話もあって、県単独ではなかなか具体的な動きにならなかった。

 

支援部隊の派遣が決まったのは、震災からようやく10日間ほどが経過した頃だった。職場で緊急ミーティングが開かれた。現場の様子がまだまだよくわからない状況なので、まずは志願者を募るということだった。

 

派遣先は、宮ギ県山元町。福島県との境にあり、長い海岸線をもつ。この海辺に沿って広く住宅地が散在していたため、多くの住宅が流出し、犠牲者も多かったのだという。

*死者632人、家屋の全壊2,217棟(うち流出1,013棟)にのぼった。

 

 

志願者と言われ自然に手をあげた。「宮宮コンビ」を始めた者として、何はともあれ現地の様子を知りたかった。口蹄疫の恩返しがしたかった。ところが、上司から一言「甲斐さんには残って貰わなくてはならない」と言われた。

 

実は、このミーティングの直前、チームリーダーへの昇任が内示されていた(異動は4月1日付)。第1陣の派遣は4月に入ってからで、リーダー以上の役職者は対象外なのだという。今後、長期的な人員派遣が見込まれる中、自県の業務遂行も継続していかなくてはならない。リーダーはチームの取りまとめ役として派遣せず、当面は若手職員を2週間単位で派遣していくこととなったのだった。

 

ジリジリとした気持ちのまま、次々に若手職員(といっても、ぼくの数歳下までが対象)が派遣されていくのを見送り続けた。しばらくして中期的な職員派遣計画が示されたが、その計画で見る限り、当面、ぼくに声がかかることはなさそうだった。BCPの観点からも自分の気持ちだけで動くことはできなかった。

 

気持ちを切り替え、遠方からできることを考えることにした。個人的な義援金はもちろんのこと、東北(宮ギ)応援フェアを企画したり、他部局が進める宮ギ県支援プロジェクトに企画を提案したりした。

 

とはいえ、個人的にも大きな出来事が起きていた。震災の半年前(つまり口蹄疫の収束直後)に、第3子が生まれていたのだ。2番目の子に難聴の障がいがあるとわかってから、子どもは2人という気持ちがあった。そんな中で生まれてきた第3子である。たぶん、ぼくにとっての最後の子であろう。じっくり子どもとの時間を取るために育休を取ろうと思った。出産直後から職場に相談し、震災の前には職場の了解も得ていた。

 

かたや被災地への支援に行きたい自分がいて、かたや子どもと向き合いたい自分もいる。複雑な気分だった。とはいえ、結局は、2011年9月から4ヶ月間の育休を取得した。育休は思った以上に大変だったし、育休前と育休後は、準備とフォローで忙しかった。2012年4月には今の職場へ異動した。まったく経験のない職場で、事務量も多く、なかなか仕事に慣れなかった。

 

「宮宮」への思いは、徐々にそういう「日常」に飲み込まれていった。ぼくにはぼくの人生があった。一生懸命に取り組むべき日々の仕事があり、うんちやおしっこの世話をする相手があった。そうこうするうち、気がつけば、大震災から2年もの月日が流れようとしていた。

 

[13.01.20]

・朝食券なくして食べ損ね(涙)。終日、畠山さんに案内していただく。

・近々再開する漫画館を横目に見つつ、「復興商店街」。若者が多い。ボランティアからそのまま残って街づくりに協力している子も多いとか。「ISHINOMAKI 2.0」が運営する「IRORI石巻」。こういう空間はいいな。Herman Millerが協力しただけあって、スタイリッシュであたたかみがある。人が集える空間だ。石巻工房工房長の千葉さんとご挨拶。

・「日和山」から街を見下ろす。海に向かって、全面に空き地が広がっている。全部住宅が流された場所。その一角には、一昨年の紅白で長渕剛が歌った「門脇小学校」も。津波と火災に見舞われて今や遺跡化。「石巻港」。昨日の津田くんの話にもあったが取れる魚種が多いため、ひどく長い港だ。その分被害も大きかった。

・「サン・ファン館」。今年は支倉常長率いる慶長遣欧使節団がサンファン・バウチスタ号に乗って出航して400年とのこと。河北新報によるとその2年前に発生した慶長三陸津波で深刻な被害を受けた仙台藩が、メキシコとの通商に活路を見出そうとして、伊達政宗の新書を携えた支倉常長を派遣したのだという。震災後2年での遣欧使節団か。なるほど。これは何かやるしかないだろう。まずは9/13の出帆記念日に「サンファン公園」を再開するべきでは。

・塩釜へ移動。「マルブン食品」で常務のぶんさんと。話の端々に情熱があふれる。2015年のミラノ万博で一緒に何かできるといいな。ランチは「すし哲」。特上。残念ながら鮨だけは東北に勝てない。

・仙台へ移動。「ずんだ茶寮」なおこさんファミリー、野呂ファミリーと合流。宮城最後の時間。楽しかった。ありがとう。

・東京着。「コムズ銀座」泊。理恵企画のヨスコ・グラブネル・ガラ・ディナーに参加。同じテーブルには、じゅんじゅん、ふるふる、ぜんりょうまる。素敵過ぎる。奥田シェフともいろいろ話させて頂く。アンフォラ2005が印象的。2次会で吉田さん撃沈。

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