ドクターヘリの ” 種 ” が生まれた日

2012-04-05 (木)

仕事 友人知人 宮崎県

2005年1月上旬のある日。ぼくは、西郷村(現:美郷町)の消防出初式に参加していた。式典の準備が行われている間、役場の方たちと雑談していると、西郷村立病院の事務局長が「もし時間があったら病院に来てくれないか」と言ってきた。何やら、若いドクターが、ぼくの話を聞きたいと言っているとのこと。その日はただの「カバン持ち」で、式典の間は何もすることがなかったので、ほいほいと徒歩5分の距離にある病院へと向かった。そこに待っていたのは、なんとも愛らしい笑顔をした金丸勝弘医師だった。

 

当時、ぼくは防災ヘリを宮崎に導入する仕事をしていて、2月末の運航開始に向けて最終準備を行なっている最中だった。金丸医師は「地域医療にヘリは有効なんではないか」と思っていたそうで、「防災ヘリを医療目的に使っていいのか」という話を聞きたかったようだった。

宮崎の防災ヘリは、正式には「宮崎県防災救急ヘリコプター」という。全国で唯一「救急」という言葉が入っている。これは、事故や災害時だけでなく、日常的な救急用務でも積極的に活用していくという意味でつけたものだ。名前だけではない。航空隊員の半数を「救急救命士」としているのも宮崎オリジナルだった(普通はレスキューの隊員が搭乗するのだが、宮崎だけは救急救命士がレスキューも行うという独自のルールとした)。

 

また、ちょうど1ヶ月前に、アメリカでのヘリの医療現場での活用実態を見てきたばかりであったので、「医療分野でもこれから積極的にヘリを活用すべきである。救える命を救わないのは医療と行政の怠慢だ!」という自説をぶちまけた。将来的には、防災ヘリの基地にドクターを常駐させ、「ドクターヘリ的な運用」も目指したいというぼくなりのアイデアも披露した。確か小1時間程度ではあったけれど、二人して「医療ヘリ構想」を熱く語りあって、すっかり意気投合した。その後、金丸先生とはプライベートでも何度も会って、「医療現場でのヘリ」について語り合ったものだった。

 

その1年後。金丸先生は、千葉の日本医科大学北総病院へと転ずることになる。テレビドラマ「コードブルー」の舞台にもなった病院で、全国で最先端の「ドクターヘリ」の運航実績をあげていた病院だった。ぼくの「防災ヘリを医療に活用」というアイデアを飛び越え、「ドクターヘリ」の修行に行ったのだった。金丸先生は、そこで5年間研修医として研鑽を積まれた。内科救急という慣れない現場で、先生も随分苦労されたのではないかと推察する。給与もよくないのに(笑)。

 

そして、昨年、ドクターヘリ導入の特命を背負って金丸先生は、宮崎大学医学部へ戻ってきた。

 

ドクターヘリの導入については、医療、行政のたくさんの人が尽力してきた。莫大な予算を確保すること、救急専属のスタッフを確保すること、施設を整備することなどなど…。直接・間接に携わってきた人は何百人にもなることだろう。しかし、そもそも金丸先生がいなければ、宮崎にドクターヘリを持ってくることはできなかった。いや、金丸先生の存在があったからこそ、「宮崎にドクヘリ!」という夢を追いかけることができたのだ。そう。つまりは、金丸先生をその気にさせたぼくが一番偉いんであるな(全然違うと思う)。

 

そんないろいろな7年間が過ぎ、あの日に撒かれた種がついに花を咲かす。運航開始はいよいよ、2週間後、である。

 

 

[12.04.05]

・ひたすら勉強の一日。

[12.04.06]

・起案がたくさん回り始める。新体制での始動。部長への説明。

・娘2号が発熱。生協病院へ。ただの風邪らしい。

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